高橋:それで見つからへん時に落ち込むんじゃないですかね。だから、あんまり無理にそういうこと言わんと。
西村:そうなんですよ。私も相談役をやっていますが、まず、「自分の足元から、できることからやったらいい」と言っています。そして、友達や先生と話してみる。そうすると、そこから面白いことがまた見つかるかもしれない。先生と話していても、別に先生がいいことを言ってくれるわけではなくて、多分、話してる間に自分で気付くんですよね。恐れずに、学生の身分を大いに生かして、コミュニケーションをどんどん取ってほしいなと思います。
國府:うん。もう一つ言おうと思ったのは、他の分野もそうだと思うんですけど、数学は、学生の自主ゼミってけっこう大事っていうか、いいことだと思うんですよね。僕が学生の頃は、まだ今よりも講義の数が少ないこともあって、自主ゼミをやって良かったと思います。いっぱいゼミをやりました。3日で潰れたゼミとかいうのもありましたが。やっぱり、話をし合うことが大事です。数学というのは、分かっているようなつもりでいても、やっぱり人に説明すると分かっていないということが自分でよく分かるので。数学って、最初のうちはわくわくするようなことって、なかなか分からないと思うんですよね。だけど、少なくともゼミで一緒に話をし合っていると、他の人がどういうふうに考えて、どういうふうな分かり方をしているのかっていうのがけっこう分かるので。多分、物理とか、生物でも自主ゼミ、あるんじゃないですかね。だからそういうのをぜひやってもらったらいいかなと思ってます。
西村:そうですね。本当に日常的にコミュニケーション取ってほしいと思います。
高橋:私、実はこれから東京まで文科省の会議に行くんですけど、なんか最近は、どうも何かの役に立つとかそういう議論が多いですね。京大の理学部はもう最後の砦だと私は思っています。さっき、いくこさんが、役に立つとかいうよりも、心を遊ばせて、知力を養うことが喜びであると言われたと思います。そういうことがのびのびできるのが、ここですよね。この中で育つ学生たちは、ほんとに羨ましいっていうか、楽しいだろうなって思うんです。いろんなことが分かると楽しいっていうのは、これは子どもですよね。子どもがいろんな名前覚えたり、理解できたら、楽しくなる。もうそのまんまでいいんじゃないかなと思うんですね。ですから、今日の先生たちの話を聞いていて、これは何かの役に立つとかいうことを、ある意味、意地になっても言わないじゃないですか。かっこええなーと思います。それはすごく、私が求めていた環境であり、それがそのまんま学生たちに文化として伝わっていったら、教員たちも学生たちも、この学問の楽しみの中にどっぷりとつかれるという、もう非常に贅沢なことがやっていけるんじゃないかなと思いますね。そういう文化の中で、学生たちには強いエールを送りたいなと思います。
長田:はい。自主ゼミの楽しさとか良さについてですが、実は私も学生の時に物理の自主ゼミというのいくつかやってました。その中の一人がですね、今、物理学第一教室にいらっしゃる前野さんだったんですよね。彼はその頃からすっごい優秀でですね。それはもう、ほんとに数学だって、ピュンピュン解いていて、私なんか、ほんとに落ちこぼれだったんです。でも、その時の会話などをいろいろ今から思い起こすと、ほんとに良かったと思います。彼は大学を出て、その後すぐ、修士課程はカリフォルニアのほうに行ったんですが、その時に我々は、あいつがいなくなったから、大学院の定員が一人空いたなんて言ってたんですよ。それはもちろん、そういう面もあったかもしれませんけれども。その後、今度は私が名古屋大学からこっち側へ移ってきた時に、「ああ、彼がいる」と思って、非常に懐かしい思いがしました。思い出という意味でも、自主ゼミをやってとっても良かったと思いましたね。
三輪:数学の講義とかで分からないということを気にしないでほしいと思います。でも現実に授業をやってると、60人くらいで始まっても、すぐにというか、あるいは結局はというか、40人、30人とかいうレベルにどんどん減ってしまうんです。そういうことが起こらないようにとは思うんだけれども。私は以前は研究所にいたので、教えるようになってからは10年ちょっとで、なかなかうまくいった経験がありません。ただ、数学を勉強する時のヒントになるような話が少しでもできるかと思って、ガウスの話をしてみます。ガウスがまだ小さかった時に、先生がちょっとさぼってやろうと、思ったかどうかは分からないけれど、1+2+3+と順に足していって、100まで足したらいくつになりますかと質問した。これをやらせておけば、しばらく30分くらい放っておけるんじゃないかと思って教室を出ようとしたら、ガウスがいきなり答えをパッと言ってしまったっていう話。この話をどう考えるかということです。普通は、あっという間に答がわかっちゃう天才っていう話じゃないかなと思うのですが、最近、僕はそういう風には思わなくなった。つまり、ガウスはその問題を聞いて、その場で初めて考えて答にたどり着いたのではないのではないかと。ガウスは足し算と掛け算を習った時から、もうおもちゃをもらったみたいで、1+2=3とか、1+2+3=6、6っていうのは2×3だとか、4まで足すと10になって、10は2×5だとかもうそんな計算ばっかりやっていたんじゃないかな。いつでも因数分解して不思議だなとか思い始めたりして、夢中になってそうやってるうちに、ある時はっと、なんだこんなことかって分かったと、これが最近の自分流の解釈です。私の解釈が本当かどうかは分からないし、だいたいこの話が本当にあった話かどうかも分からないですが。天才だって言っちゃうと、もうどうしようもないっていう面があるけど、ガウスがそういうことしてたんだっていうふうに思うと違ってくる。数学を理解するには、自分でやってみることだ、ということです。でも実はそれだけではない。ガウスと普通の人の違いが何か、そこが怖いところです。ガウスっていう人は、ほっとこうが何しようが、教わった時にそういうことをやり始めちゃう。誰も止められない。すべての時間をそれに使う、みたいなことができるかできないかが、まあ、ほぼ、数学者になれるかなれないかの違いになるのかと。ただし、研究者としてどうかでなくても、数学を学ぶという立場でも、何か教わった時に、それを自分で遊ぶ道具みたいにして、いろいろやってみるっていうことが必要なんだろうと思います。小学校とかだといっぱい時間を使って、遊んでみるという授業をするっていうことはあると思うんですけど、大学の授業では、授業時間中にそういうことはやりにくい。こっちとしては、いきなり答えを言っちゃうんじゃなくてなるべく発見的に、それこそ“education”という言葉が表しているように、何かを引き出しながら結論に至る、というのが理想なんですけども。ともかく何か新しいことを知ったときに、それを一生懸命自分でいじくるっていうことをしてほしい。それはもう自分でやるしかないわけ。もちろん誰かと一緒にやるっていうことでもいいです。それをやっても、うんと先まで行ける場合と、なかなか先へ行けなくて、その段階でもう分からなくなっちゃう場合がある。でも、やってみて分からないっていうのは、もうかなり進んでるわけです。何にもやらないというのは駄目だけど、やってみて、ここが分からないっていうことになったら、ものすごく答えに近づいたことになる。というか、それがなかったら、分かるようにはならない。一回生でやる数学、微積分とか線形代数とかは、授業の中身をたどるんじゃなくて、自分でやってみる、僕のイメージだと、プールで浮き輪に乗っかって壁際をつたっているようなことじゃなくて、荒海にザブンと飛び込んじゃうようなことを自分に課すのがいいんじゃないかな。